シッポノリンカク

映画好きで絵描き好きな曖昧模糊な記憶。又は、自由闊達な解釈。或は、落書き。

ドングリスロープ:佐伯祐三とパリポスターのある街角

 

 佐伯祐三の自画像が観たい。2014年秋の平日の午前中、私は栃木県の宇都宮美術館に来ていた。佐伯祐三とパリポスターのある街角の企画展へ向かうためである。

 里山の中にある美術館へは、駐車場からなだらかなスロープのアプローチを昇る。右手側に芝生の広場が設けられており、広場に沿って緩い右カーブのアプローチが続く。左手側には里山の木々の枝が伸びる。木陰の中で木漏れ陽と落葉が歩む事を楽しくさせる。秋風が心地良い。

 広い芝生では、子供と犬が走り回り母親が見守っている。里山では大きなビニール袋持参で、恋人達がドングリを拾う。映画のセットに居る様だ。彼らから私を見たら、やはり美しい風景の登場人物なのだろうか。

 

 スロープを進んだ先は、高低差をいっきに縮めるための階段が設けられている。その階段を昇り上がった先が美術館だ。

 階段から美術館までのアプローチにはたくさんの幼稚園児達が整列して待機していた。里山散策の課外授業だろう。

 その先の正面に設けられたアプローチのデザインウォールが見える。ファサードだろう。建物の第一印象を伝える場所だ。大谷石のデザインウォールには庇が付いており、均等に空間が抜けている。壁に縦長方形のくり抜きがあるのだ。大谷石の質感にやわらかな印象を感じる。

 その隙間から向こう側が伺える。広い芝生の空間の中央にクレス・オンデルバーグの“中身に支えられたチューブ”が展示してある。巨大な赤いチューブから絞り出された白い絵具の作品である。さらにその奥に里山が広がる。

 デザインウォールが私と巨大な絵具チューブとの結界となり、鑑賞する距離を保たせる。作品の細かいディテールが分からないから、本物のチューブがそこに存在している様であり、私の存在を小さな者と認識させる。そして、里山の背の高い木々がその効果に助長する。

 今や、私も幼稚園児達も小人だ。巨大なネズミやイモムシと遭遇するかもしれない妄想が心を躍らせる。そうして、室内へと移動した。

 

 受付から展示室までの廊下の右手側からガラス越しに、先ほどの絵具チューブが鑑賞できる。まだ、私は小人のままだ。

 企画展示室に入る。静かな展示室には佐伯祐三の作品が並んでいる。にぎやかな人々が存在しないパリの街角を描いた絵画の群れ。暗い印象の作品に引き込まれる空間がそこにあった。

 目的の絵画である“立てる自画像”の前に来た。勢いを感じる絵具の動きだ。その自画像には顔が存在しない。

 佐伯祐三フォーヴィスムの画家ヴラマンクに作品を見せる。フォーヴィスムは色彩の解放である。しかし、アカデミックと酷評されてしまう。その衝撃を想いのままにキャンバスにぶつけ、自画像を描いた。さらに佐伯は、描き上げた自画像の顔をパレットナイフで削り落としてしまう。その作品だ。

 さらに奥へと静かに息を忍ばせ、作品を鑑賞する。

 そして、先ほどまでの静寂は崩れ去った。先程、アプローチに待機していた幼稚園児が群れとして入室してきたのだ。彼らは里山散策ではなく、佐伯祐三を鑑賞しに来たのだ。

 顔を削り落とした自画像に不安を感じないか。佐伯祐三は命を懸けて渡仏した夭折の画家だ。暗い印象の絵画に対して脅えてしまうのではなか心配になる。幼稚園児が鑑賞する絵画になぜ佐伯祐三を選んだのだろう。

 突如として、にぎやかな空間へと変化した。看板がいっぱいだね。おじいさんがいるよ。

 絵画に対する自由な感じ方に自然と嫌気はささなかった。むしろ、楽しかった。

 朗らかに鑑賞する園児達がとても新鮮だ。私の心配は偏見であった。

 一群が去り、最期に“郵便配達夫”を鑑賞した。神様を描いたと言われている絵画だ。園児達のおかげか、画に祝福されている様な印象が残った。ポストカードが欲しいと思う。

 

 その後、コレクション展へと向かった。にぎやかな場所だ。私は園児達に追い付いていた。

 シャガールの絵画が展示してある。浮遊感ある輪郭線と明るい色彩の絵画だ。浮いてるよ。顔が緑だね、なんで。園児達の感想はやはり素直だ。

 その後、園児達と同じタイミングでコレクション展を出てロビーへ向かった。ロビーと展示室が回遊式でないゾーニングなので、来た道を戻る。今度は左手側に巨大な絵具チューブが在る。そして、その手前に自由気ままな園児達の群れが進む。

 チューブから飛び出す絵具と園児達の群れが印象的だった。なんて自由なんだろう。

 過去に囚われ、未来に不安する様子を感じない。今、この瞬間を感じて生きているんだ。だから、あんなにもポジティブに絵画を感じる事が出来るんだ。

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 そして、園児達と別れミュージアムショップへ足を運んだ。郵便配達夫のポストカードが売っていたが、サイズの小ささに購買欲はそそられなかった。原画の大きさと筆運びを感じた印象が強く心に残ったからだと思った。

 美術館を出る。最後にもう一度だけ大きな絵具チューブを鑑賞して小人である事を確認し、階段を下りた。

 木漏れ陽の中、下りのスロープを歩きながら、“立てる自画像”を思い返していた。色彩は感情的な表現であり、デッサンは知性的と解釈する絵画の楽しみ方がある。

 佐伯祐三の絵画は暗い印象がある。色彩に淋しさと暗さを感じる。でも、シャツの強い赤が印象的だった。そして、筆運びは荒々しくあるが自由だ。園児達は彼の描く喜びを感じていたのかもしれないと思った。

 でも、自画像の顔を削った意味は解らない。

 描き上げた自画像は笑っていたのだろうか。

 自問自答の結果が、破棄されなかった事は幸いだ。

 この時から、佐伯祐三の絵画に対する印象が変わった。

 

 今、こうして思い返すと、やっぱり郵便配達夫のポストカードを買っておけばよかったな。そして、一緒に立てる自画像のポストカードも買っておけばよかった。

 佐伯祐三の情熱に身を焦がす生き様に惹かれる。