シッポノリンカク

映画好きで絵描き好きな曖昧模糊な記憶。又は、自由闊達な解説。或は、落書き。

肋骨の道端:栃木県那須高原【板室街道】

  

 初夏の事である。峠道の日光浴はとても気持ちが晴れる。栃木県北部の板室街道から那須高原へ向かうと、木の俣渓谷の手前にトンネルが現れる。

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 山の斜面に建造されたものであって、山側の南面と天井がコンクリートで覆われ、北側の谷側は解放的な設計である。北側と天井を支える多数の柱と梁は直角に結合され、内側に露出している。南側はコンクリートの壁面である。

 その時は車で移動していた。そのトンネルを手前から確認すると山の肋骨がむき出しているのではないかと錯覚する。近づくごとに、その質感はハッキリと確認できるようになる。やはり、肋骨だ。

 打ちっ放しコンクリートの質感がカルシウムの骨格に見える。山はリン酸カルシウムの組織に支持されている事を露呈してしまったようだ。山は骨格の内側にどんな器官を収納、保護してきたのだろう。

 自然に内包され、消化されてしまいそうだ。自らの意志を持って自然の体内へ進んでいくようで、改めて、自然に対して存在の小ささを確認する。南側の壁面の圧迫感に対して、北側の解放感は渓谷の自然を覗かせる。

 

 車の運転とは自由意思の行為である。自らの意志でハンドルを傾け、舵角を決める。アクセルとブレーキの踏込で進行速度と荷重を調整する。車種によってはギアの選択で走行環境を有利にする事もできる。ギアで制限をあたえ、エンジンの性能を存分に引き出す事が出来る。運転は個性が反映される。

 しかし、運転での移動とは規則範囲での行為である。目的地に向かう為には公道を利用して移動する。公道上には幾つもの規則が存在する。道路交通法に加え、道の弧状や高低差があり、自然の天候などがある。それら複数の規則に沿うように道を進まねばならない。

 規則範囲を移動しているのに、無限大の自由意思で移動していると認識してしまう事で、あらぬ誤解が生まれる。信号のない道を進む事で日常の運転感覚は遠くなる。うねりと起伏の多い山道はハンドル、アクセル、ギアの作業を繁雑にさせる。活動的に運転した先で非日常と出会う。さも意志を持って何かに惹かれ導かれているのだと思い込んでしまう。蓋然性を疑わない妄想が生まれてしまう。

 

 山の肋骨を奥へと進む。内側から望む山肌の緑を、規則的に肋骨が遮る。パタパタとリズミカルに風景の明暗と遠近感が変化していく。その瞬間は連続的に並行宇宙を移動しているようだ。幾度も量子転送で空間移動を繰り返し、最も幸福な世界を選り好みしているようだ。肋骨を抜け出した未来は明るいだろう。才能は最大限に認められ、周囲の人々の人柄に恵まれる。それらによって与えられた冨は、ためらう事なく未来ある世代に貢献できる。懐の深さを身に付けた人物へと成長させるだろう。未来は安泰であるという根拠のない自信が生まれた。嗚呼、私は幸福の門をくぐったのだ。もし、平行宇宙の移動に失敗していたらまた来よう。

 

 凍える日常を逃げ出し、峠道の日光浴がしたい。板室街道を走りたいと思うが、雪に閉ざされた後の凍結した峠道は苦手だ。今は、枯れ木の木漏れ陽が恋しい。

 山は雪を積もらせ、春の命に備えている。春の合図は太陽が知らせてくれる。

 だから、春の予感に敏感だ。

 でも、また並行宇宙を移動してしまったら、あの時の世界に戻ってしまうかもしれない。

───1つ入れば、1つ弾かれる。

 もしかすると…、もうすでに別の平行宇宙の私とすり替わっているかもしれない。

 春よ、来い。

 

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 平行宇宙移動はできなくても、せめてストリートビューで景観だけでも楽しんでみて下さい。