シッポノリンカク

映画好きで絵描き好きな曖昧模糊な記憶。又は、自由闊達な解釈。或は、落書き。

ラベンダーと御醤油とワタシの記憶:時をかける少女(1983)

※以下ネタバレ注意です。

記憶を疑い、現実を見失いかけてしまう錯覚を感じる映画です。

時をかける少女は小説をキッカケに映画やアニメ、ドラマ、舞台化されています。今回はその映像化第1作目の作品、1983年の映画“時をかける少女”です。

最近の記憶では2006年にアニメ化された、“時をかける少女”が印象的だと思います。2006年版はコメディの演出もありテンポの良い作品ですが、1983年の“時をかける少女”は正反対の作品です。ゆっくりと静かに沈み落ちていく印象の強い作品です。

 

作品のあらすじは、高校生の芳山和子がタイムリープの能力を身につけてしまう。それは未来人の深町一夫の薬が原因だった。

芳山は深町と幼馴染だと思っていたが、二人は出会って1ヶ月の関係だった。深町は関わった人間の記憶を書き替え人々の生活に馴染み、未来では手に入れられないラベンダーの成分を未来へ持ち帰ろうとする。

 

そして、芳山は書き替えられた記憶で深町に愛情を抱いてしまう。本来の幼馴染である醤油職人の息子の堀川吾朗との絆を確認しても、芳山は堀川を差し置いて深町と未来へ向おうとしてしまう。

人は過去の記憶を基にして現在を認識して生きています。周囲の人々との信頼関係や生活習慣も過去の記憶が作用して自分という者を確立しています。それらの掛替えのない記憶を書き替え、深町は過去の人間と関わってしまう。ラベンダーの成分がどれほど未来で重要な存在であるのか劇中で語られていないが深町に非情を感じてしまいます。

更に、堀川と時間をかけて、ゆっくりと深めた絆が愛情へと発展しない事に無情を感じてしまいます。あぁ、堀川君、立派な醤油職人になってくれ。

芳山は醤油よりラベンダーの香りに惹かれてしまうのです。

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その後、深町は関わった人々の記憶を消去して未来へ返ってしまう。しかし、深町との記憶は人々の中に残っている様に感じてしまいます。深町の家族だった老夫婦は寂しさを深め、芳山は薬学にのめり込む。芳山は、少女から大人になり、無意識に未来へ向う薬を求めて成長し、一生を懸けた仕事に就いてしまったように感じてしまいます。

深町との記憶は、PCデータの様に消去したタグを付けただけで、システム上は存在していなくても物理上には存在していて、人々の潜在意識に影響を与えている印象が残るのです。

意識の上に絶対に浮上してこないが、心に存在の影を落とす深町との記憶。

 

しかし、深町の憂いの滲む眼差しに哀愁を感じてしまう。そして、妄想する。

───昼休みの賑やかな教室が突然に独りぼっちの空間へと変わる。何の予兆のキッカケも感じなかった。突如の出来事。

明るかった教室も暗闇へと変わっている。照明は教室にも窓の外からも感じる事が出来ない。人の声は何処かへ消えてしまった。動物や虫の声、風の音すら鼓膜へと届いてこない。微かに香りを感じる。その香りは鼻腔を刺激した結果じゃない、脳が懐かしさを再生しているだけだ。その懐かしさが果てしない静寂と孤独を何処までも広げていく。こんなにも教室は、世界は広かっただろうかと振り子のように自己問答を繰り返す。…お弁当を食べすぎて、放課後まで居眠りした訳じゃないよ。

 

自分の存在は希薄なのだと思えてくる。日常の中であいさつする人々が自分の存在を示してくれる。自然と人々に感謝の気持ちが湧いてくる。このブログに遊びに来てくれる人々にも同様の感謝を抱きます。人生を楽しく、幸せになろうとブログに書きこまれる人々の言葉から勇気を貰える。沢山の要素が今の自分を構成している事を再確認する。記憶や経験がいかに尊い存在か考えさせられる。

思春期に自分の存在に悩み、自問自答しているのはいつの時代も不変なのだ。

 

この映画は、大林監督の故郷である広島県尾道市で撮影された尾道三部作と言われている作品の2作目です。1作目は“転校生”、3作目は“さびしんぼう”です。

どの作品も少年期の光と影を感じる作品で、主人公の心象風景と尾道の風景が重なります。

尾道市は斜面に建築された趣のある町並みと路地、瀬戸内海の穏やかな海が印象的なのですが、この“時をかける少女”では海の景色は描かれていません。入り組んだ路地に主人公の閉塞感を感じます。そして、対照的に他の2作品では海の穏やかさがとても印象的です。

最近になって初めて尾道三部作を鑑賞したのですが、少年期の悩みの根っ子はいつの時代も変わらないのだと思いました。