シッポノリンカク

映画好きで絵描き好きな曖昧模糊な記憶。又は、自由闊達な解釈。或は、落書き。

握りしめていたい指:パーマネント野ばら

 

※以下ネタバレ注意です。

夏はコントラストが強い季節です。強い光が、濃い影を地面に描く。その強い光は意識を曖昧にさせてしまう事があります。

でも、強い光をぼんやり浴びて立ち止まり、薄れていく意識に溺れる心地良さもあります。

そんな忘我の時間を想い描いた時、映画“パーマネント野ばら”を思い出します。

 

主人公のナオコは低い机に突き伏せて夢を見ている。強い日差しを避けた室内では、カテーンが揺れ、開きっぱなしの本のページがそよぐ。その場所は港町のビューティサロンの居住部分。道路を挟んだ向こう側は海です。

潮風を感じる心地良い昼寝。その姿に声をかける幼子の娘。

ナオコは出戻りです。一人娘のモモと共に母の住む実家で生活し、美容業を手伝います。その場所がパーマネント野ばらです。

パーマネント野ばらには、美しさを求めて女性が集います。その下心は男…いや、恋心なのでしょう。

そんな女性たちは男に翻弄されてしまいます。喜んでは悲しみ、怒っては泣き出してしまう。そんなドタバタが描かれて笑いを誘います。

笑いは心を弛緩させてくれますね。

 

そんな出来事の合間に、ナオコは1人の男性との戯れに微笑みます。

女や博打にのめり込む友人達の恋人と比べると、ナオコの彼は穏やかで頼りがいのある男性です。

修羅場喜劇の後に描かれるナオコの喜びは、心穏やかにしてくれます。そのテンポがとても軽快で、次の展開を楽しみにさせるのです。

幼いナオコ達も描かれます。

新しい自転車で坂道を駆け下りるナオコ。その後を追いかける友人達。その自転車は、潮風を感じるナオコの夢にも現れます。

ナオコの新しく立派な自転車に憧れ、羨ましがる友人達をナオコは眺めている。

自転車が恋人であるように暗喩されているなら、ナオコの秘めた優越感の気配がします。

 

その後、ナオコの恋心にも暗い影を予感させます。でもナオコの切なさは喜劇になりません。美しいピアノの音色と共に波打ち際での回想が始まります。少女の背中越しに恋心が展開される。

その光景を観ていると、ある瞬間からピアノの音色がグッと心に迫って来ます。スッと足下が抜けて、ナオコの心から外側へ落ちた感覚です。切なさで委縮した心の中で、ピアノの高音は悲しみを、低音は不安を増幅し始めます。追憶で弾けそうな心のナオコを想うと、誰かに心を委ねる喜びに疑問が芽生えてしまうのです。外側からナオコに共感してしまいます。

そして、ナオコは波打ち際にぼんやりと座り込んでしまう。

 

そんなナオコをパーマネント野ばらに集う人々は優しい心で見守ってくれる。1人娘は母を想い、小さな歩幅で波打ち際へ向かいます。

みんなひとりぼっちなのです。だから、心の中に大切な人を招待したくなってしまう。

心の中のあの人なら、こう言って慰めてくれる。誉めてもらえる。そう思う事で救われる時間があるのだと思うのです。それは、その人にしか対話できない世界です。

日々、人は心の中に小さな世界を築きながら生きているのでしょう。たくさんの世界が隣り合っても、共感する事なく時間が流れてしまう。

何気ない日々の繰り返しの中で、誰かの世界に優しく寄り添えたらと思える映画でした。

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ナオコは淋しい時、彼に会いに行ってしまうのだろう…。

それは、誰かの出来事を目の当たりにした後に訪れる淋しさじゃないかな。

恋心がこじれて、どんな災難に襲われ落ち込んだとしても、それは恋人が在るからこそ出来る心のドッジボールなのだと考えます。

そんな不幸を羨んでしまう事があるのかもしれない。

淋しさを埋め合わせると共に、彼と会う優越感の刺激を求めていたなら、ナオコの心に彼は在り続けるのだと思うのです。何度でも、淋しさを感じる度に彼に会いに行ってしまう。ちょっとイジワルな視点かもしれませんね。でも、特別な人との恋心だからこそ感じてしまう快感だと思います。内に秘めた自惚れなら、心を軽くしてくれる。

 

大きい感情のボールを抱えてしゃがみ込むナオコへ、母親を求めるモモの声が救いになればと願ってしまいます。