シッポノリンカク

映画好きで絵描き好きな曖昧模糊な記憶。又は、自由闊達な解釈。或は、落書きやネタバレ。

笑う門にて、:火花

相手を受け入れる間を感じる笑いが好きだ。

笑うとはどういう事かを考えると、緊張と緩和の緩急だと答えが返ってくる事があります。人が集う場の張り詰めた緊張を誰かが間抜けな言動で笑い飛ばす。風船に空気を送り込ませ続け、伸び続け張り詰めたゴムが弾け飛ぶように笑いが起きる。

緊張は笑いの刹那に可笑しさの感情へと転換が起きる。可笑しさの笑いです。

同じ笑いでも心許せる人と行動する事で楽しさから込み上げる笑いもあります。それは楽しさの笑いです。

どちらの笑いも人間関係を築き上げた結果の笑いです。

その人の印象や信頼関係を礎に、笑いを誘います。だからこそ、笑いにはキャラという人柄の濃厚さが重要なのでしょう。

 

映画“火花”では漫才の舞台上で笑いを求める芸人たちが描かれています。

駆け出し芸人の徳永は先輩芸人の神谷に憧れる。徳永は、神谷の型破り漫才に惹かれ、弟子になり、神谷伝記を綴る事になる。

徳永は芸人として売れる事に執着し、笑わす事笑われる事の狭間で葛藤の日々を送る。こうすれば売れるという法則はなく、時代の流れの中で貧しさを噛みしめながら手探りで笑いを伝えようとする。

笑いを求め、熱を帯びた年月の積み重ねを観ていると彼らに心が惹かれます。

f:id:kimerateiru:20190827135757j:plain

 

ボケとツッコミが折り重なり積み重なって笑いが大きくなるように、人が人と摩擦する事で、想いや考えが深みを増して登場人物の人柄が滲み出てくる。

行動した結果は思い通りに付いて来ない。だから、ぎこちないバランスで他人を見上げてしまう徳永が在る。

彼が重ね上げた結果は均等には重ならず、今にも倒れてしまいそうないびつさの揺らぎに情熱があり、執着があり憧れがあり落胆があり絶望がある。

 

そうした日々の積み重ねを鑑賞していると、冒頭に描かれた打ち上げ花火のシーンの追憶と重なります。

それは、闇夜に2つの花火が打ち上げられる。ゆっくりと上昇する火球は不安定な軌道でたくさんの火花を散らせる。その映像と共に徳永と相方の山下が漫才師を目指そうとした若き日の会話が流れる。

火球の勢いと二人の喜びが重なり希望に溢れたシーンは、ほろ苦い印象へと変化する。たまらなく切ない。

 

直感の結果は強引にその人の時代を押し進める事がある。誰かを祝福するために、生き方を見直さなければならない事が徳永と山下に突き付けられる。

長い沈黙、不安定に浮き沈みする感情。その葛藤の挙句、徳永と山下は漫才の舞台を降りる決断する。二人の最終舞台は濃縮された時間を感じます。長い時間をかけて闇夜を昇り、弾け飛ぶ火球の如く。

その後、漫才を引退した徳永が描かれる。そこには、感情豊かに変化した人々が持続している場所に映し出される。思い出の残留と時代の動向です。

 

一度でも何かに情熱を傾け、夢中になった時間を持った人に観てもらいたい。衝動の行き先を見極める為に流れた時間を共感できるのではないだろうか。

そして、その結末の続きがある事に期待できればと感じる映画でした。

 

 

 

笑いとは信頼関係だと考えます。漫才はボケとツッコミの会話の掛け合いです。ボケの場違い間違い勘違いを、ツッコミの駄目だしが笑いを起す。

ボケの存在をツッコミが笑いによって受け入れる構図で会話芸が進みます。その信頼関係が加熱するとボケとツッコミの立ち位置が入れ替わってしまう事もあります。

だから、同じ笑う行為でも笑い笑われる信頼関係での存在証明のポジティブな可笑しさと、笑わせろというネガティブな笑いを履き違えてしまうと喜劇を悲劇へと歪ませてしまう。更に、深刻な悩みを見下して強引に笑い者にするネガティブな笑いも、暴力になってしまう。笑い笑わせる関係には、常に相手への敬意を払う必要があるのです。

陽気な笑いの本質に他人を受け入れたい興味が隠れているのなら、そんな笑いを好む人に共感したくなります。